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野馬追文庫(南相馬への支援)二六

野馬追文庫(南相馬への支援)(二六)
            山内 薫

 今回は攪上さんが所属し、当初から野馬追文庫の活動に様々な協力を頂いているジネット(「お茶の水女子大学児童学科・発達臨床学講座・発達臨床心理学講座同窓会」)のMさんから原稿をお寄せ頂きました。Mさんは野馬追文庫の発送作業を毎月お手伝いして下さっています。原稿の中にも記されていますが、当初から精力的に発送作業を支援して下さっていたZさんが二〇一五年一月に急逝され、Mさんがその後を引き継いで現在まで協力して下さっています。

 私が野馬追文庫発送のお手伝いを継続的にするようになってから三年半近くなりました。その間に感じたことを書くようにとのご依頼でしたが、大したことをして来なかった私には書けるほどのことがなく、これを読まれる皆様には申し訳なく思っています。

 二〇一一年三月一一日午後、東北地方太平洋沖地震が起きた時、私は住んでいるマンションの部屋の排水管清掃が終わりホッとしたところでした(たまたま家にいたので、帰宅困難者にならずにすみました)。「えっ?!いよいよ二度目の関東大震災?」と思いつつ玄関のドアを少し開けてうずくまって様子を見、その後今の地震の震度は?とつけたテレビに映ったのは仙台空港が津波に呑みこまれていく光景でした。各地で地震や津波による建物の倒壊、それに続いて起こった福島第一原子力発電所の爆発による放射性物質の拡散。東日本大震災の被害の大きさの情報は日増しに増え、今まで経験したことのない大惨事が起こっていること、多くの犠牲者の方がいらっしゃること、それらのニュースを耳にする毎日の中で、「生かされた」私たちに出来ることは何か……。その思いの一つとして「被災した子どもたちに絵本を送って元気になってもらいたい」と寄附金を集めたものの、その活かし方をなかなか見つけられずに模索していた時に出会ったのが「子どもたちへ〈あしたの本〉プロジェクト」の一つとして活動している攪上さんの「野馬追文庫」のお話でした。

 まず野馬追文庫へ私たちが集めた寄附金の一部を寄付することから関わりが始まりました。寄付は毎年わずかずつですがまだ続いています。私たちのグループで攪上さんたちの活動に最初にお金だけではなく人的お手伝いを、と手を挙げられたのは当時八〇才に近い年齢の先輩Zさんでした。二〇一二年一二月からお手伝いは始まりましたが、当時は三〇数か所の仮設住宅に絵本を届けるために、梱包にかなりの労力が必要でした。それを攪上さんがお一人でなさっていると知って、お手伝いをしないわけにはいかない、と始められたのでした。

 南相馬のことを知ってもらうためにもいろいろな人に関わってもらいたいというのがZさんの方針で、私のお手伝いの順番は中々めぐって来ず出番は一年に一回ほどしかありませんでした。その彼女が二〇一五年一月に急逝され、代役のお手伝い係を私が引き継ぐことになりました。毎月一一日に間に合うように絵本を発送する。そのことの意味をあまり深く考えることなく、ただお手伝いする人が必要だからと引き継いだのでした。そして毎月の発送のお手伝いが始まりました。私の場合は攪上さんや先輩のように毎月必ずではなく、時々他の仲間に代わってもらって協力し合いながらですが。

 南相馬の今を考えつつ、どのような絵本を届けるのがいいのかを真剣に考えて選書してくださる方々がいて、その本を発注してくださる方がいて、それを梱包し発送する方がいて(そのお手伝いを私もすることができて)、届けてくれる配送の方がいて、送られてきた絵本などを南相馬市のそれぞれの場所で受け取って子どもたちに届けてくださる方たちがいて、子どもたちやその周りの方々が読んで選書者たちの思いを受け止めてくださり、その気持ちをまた返してくださる。絵本に書かれていることが子どもたちやその周りの大人たちの生きる糧になっているのはもちろんのこと、関わっている人たちの「思い」が行ったり来たりしている、心のキャッチボールができていることが本当に生きる心の糧になっているのだな、と実感できるようになったのはしばらく後になってからの事でした。

 二〇一三年八月に、南相馬市保健所のOさんに東京までお越しいただき震災当時のお話を伺う機会を得ました。二〇一五年二月には攪上さんに企画していただいて、数名で南相馬に伺い、南相馬市社会福祉協議会を通じて友伸グランドの仮設住宅にお邪魔し、そこへ避難していらしていた小高地区の皆さん(主に高齢の方)とお話する機会を得ました。「じゅにあサポートかのん」や「ちゅーりっぷ文庫」にお伺いして担当者の方と直接お話することもできました。南相馬市保健所のOさんと再開しお話を伺うこともできました。そしてあの震災の日から時間が止まってしまったような小高地区をタクシーの運転手さんに案内してもらいました。「テレビの映像ではわからない魚の腐った臭いで当時は大変だった」という運転手さんの言葉に、私たちの想像を絶する光景がそこに広がっていたことがよりはっきりとわかりました。

 野馬追文庫発送の時に、季節の挨拶程度ですが送付案内のハガキを同封しています。届け先の方のお顔を思い浮かべながら書いています。直接お目にかかったことがある(相手の方はその他大勢の中の一人でしかなかった私の記憶はないでしょうが、私にとってはあの方に書いている)、というのは大切なことです。直接お目にかかっていない方々も、送付後に返信してくださるメールや、喜んでいるお子さんたちの写真を送ってくださることによって、ハガキの向こうにいる方々がとても身近に感じられます。お手伝いを始めたころ、書くのが苦手な私は、「え~、お手紙?」とちょっと苦痛でした。でも、これはとってもいいシステムです(特に私ではなくもっと上手に書ける方が書くと)。これを考えた人はなんて素晴らしい!と最近思うようになりました。ただ物を梱包して送るだけでは繋がらない、ただの手伝いだった私の気持ちが、何かを書くという行為によって、相手を考えることで、繋がって行くのです。毎月少しずつ継続して同じ相手に送る、このこと自体がとても素晴らしいやり方です。

 私はさいたま市にある影絵クループに所属しています。そこの指導者も、震災後一〇年間は被災した方々を元気づけるために毎年公演をしよう、と考えていて二〇一二年二月から昨年一〇月までに合わせて六回、岩手や福島で公演を行いました。二〇一六年の公演では懐かしい南相馬市を通って相馬市へ行き、その後南下していわき市が最終公演地でしたが、途中の公演先の広野町へ向かった時は放射線量の多い、道路以外は立入禁止の地区も通りました。そこは時間の止まった町というよりは見捨てられ草に覆い尽くされていて、茨に覆われた眠り姫のお城の外側のような感じでした。でも子どもたちはどこにいても元気。笑顔いっぱいで迎えてくれ、歌の影絵に合わせて歌ってくれます。来てよかった、と思わせてくれます。直接相手の顔を見、声を聞くことのできるこの活動はとても楽しい時間で、これからも毎年続けていきたいと思っています。ただ、野馬追文庫発送のお手伝いとは違って、二度公演に伺った所も数か所ありますけれど、そのかかわり方は一過性で、そこから先に進んで心のキャッチボールという訳には行きません。

 話がちょっとずれましたが、同じ相手に継続して関わっていくことの大切さをこの野馬追文庫で教えてもらったように思います。この3年半にいろいろな絵本に出会ってきました。絵本がどんなに人の生き方に関わっていくのか、読んだその時に楽しむだけでなく、何かの折に付け、かつての記憶の中のお話がその人を勇気づけてくれるということを、選書をしてくださっている司書さんたちのお話から学ぶことができました。攪上さんが色々とお話してくださるので、送付先の方々が今どんな様子なのかそれぞれの方の思いに気持ちを向けることができます。毎月一回ほんの少しの時間だけのお手伝いですが、その積み重ねは私にいろいろなことを教えてくれました。これからもこれを続けることによってまた多くのことを学び感じていけることと思います。
東日本大震災の余震はまだ続き、二〇一六年四月に熊本大分でも大きな地震災害があり、つい最近の六月一八日には大阪で大きな地震が起きました。何かある度に被災された方々は過去の記憶と向き合わさせられています。絵本送付先の方から、三月一一日は福島にいないようにしています、というメールをいただきもしました。関東大震災からすでに九五年。いつ東京に大災害が起きてもおかしくありませんが、今はまだ私は「生かされて」います。生かされている以上、傷ついた人に寄り添う一人でありたいと思います。小さなことでも続けることによって何かが見えてくる、そのことを教えてくれた野馬追文庫に感謝しています。