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野馬追文庫(南相馬への支援)二三

点字から識字までの距離 一〇五
野馬追文庫(南相馬への支援)(二三)
   Oさんからの手紙     
山内 薫

 この活動の初めから野馬追文庫の誕生、そして南相馬への訪問など当初から私たちの活動を現地で支えて下さっていた保健師のOさんから原稿を頂きました。

 あの東日本大震災から六年六か月が経過しました。

 その震災後、仮設住宅に多くの人が入居した二〇一一年八月、仮設住宅の集会所一八か所に絵本をお送りいただいたのが始まりでした。一八か所から始まり三六の集会所にまで広がり「毎月一一日に南相馬の子どもたちに本を送りたい」というやさしく熱い思いをいただき続けておりました。

 一度にたくさんではなく「忘れない」息の長い支援をしたいとおっしゃっていただき、仮設住宅が集約されつつある今は「ぽにたんさん(ぽにたん広場)から、何かリクエストありますか?」と訊いていただき遠慮もせずリクエストをして、大型絵本をお送りいただいたりもしました。ぽにたん広場とは、震災後に地域のお母さんたちに寄り添えるおせっかいおばちゃんとして、母子健康推進員養成講座を開始し、そこから自主組織化して誕生した「ニコニコ笑顔でよりそい隊:母子愛育会」の皆さんが開催している遊びの教室です。そこでの読み聞かせにお送りいただいた絵本たちは大活躍してくれています。

 復興に向かうまちは、少しずつ元気を取り戻しています。

 「子どもの本の持つ人の関係を作っていく力や心のどこかに読んだ本の絵や言葉が子どもたちの人生の中で ふと力になったり励ましになったり・・・・・・お母さんと子どもが、お父さんと子が、お友達同士が本を挟んで、ちょっと良いひと時を持ってほしい。本があったことが、何か人生の中で楽しい思い出になってほしい。そんなことを、願っております。」と、攪上さんからお送りいただいた思いを大切にしていきたいと思っています。

 野馬追文庫は多くの方のご支援で続いていると思います。届いた絵本たちの後ろに、多くのやさしい顔が思い浮かびます。この長い支援に本当に感謝しております。そして寄稿させていただく機会をあたえてくださった山内さん、ありがとうございました。

 Oさんは震災二年目の二〇一三年八月三日に攪上さんが所属する「お茶の水女子大学児童学科・発達臨床学講座・発達臨床心理学講座同窓会(略称ジネット)」の招きで東京に来られ、ジネット主催の第九回おしゃべりサロンという会で講演をなさっている。その時の記録が同会が発行している「ジネットだより 第六七号」に掲載されているのでここに再録させていただく。震災からまだ二年という時期のお話しは、再度私たちの活動の原点を思い起こさせるものだ。なおジネットは、本の発送を初めとして、資金面でも野馬追文庫の活動を現在まで支援して下さっている。

南相馬からのレポート

 東日本大震災の際、南相馬市は震度六弱の揺れに見舞われました。その時、原町保健センターでは十ヵ月の赤ちゃん健診をしていました。

 地面が割れるのではないかと思う程の揺れの中で来所者の安全確保に懸命でした。そして三〇分から一時間後、沿岸部には一五mを超える津波が押し寄せました。私達は保健センターを避難所にするための準備をしていましたが、そんな津波が来ていることはまったく知りませんでした。

 原町区の老健施設では三〇数名が亡くなられていますが、避難にあたった職員の方は、その後人前に出られなくなるほどのショックを受けていました。南相馬市の人的被害は、二五年四月現在で死亡者一〇四五人(うち関連死四〇九人)です。三月一二日に福島第一原発で爆発があり、放射性物質が拡散したかもしれないということは、新聞も届かなかったため一三日になっても知りませんでした。一〇〇人近くの方が原町保健センターに避難されていたので、ひたすらそこでの仕事に追われていました。一五日頃から各小中学校の校庭に大型バスが何十台も来て多くの人が市外に避難していきました。一九日に保健センター避難者のバスを見送った後は放心状態でした。通りには人影もなくなりましたが、実際には在宅で動けなかった人や、県外に避難したくないと避難所に残った人など、一万人弱の方が市内にいらっしゃいました。保健師の中でも小さいお子さんがいる人達には避難を優先してもらい、三月末にようやく保健師が七、八人集まって、残っている人達のケアについて話し合いました。まずは避難している人達の健康状態の確認のため市内避難所の巡回、そして在宅巡回訪問が課題でした。

 私達が保健師活動で一番に行ったのは「連携と調整」です。四月に入り、ようやく長崎から支援チームが来てくれることになりました。在宅巡回診療の目途がたち、そのための名簿を夜中までかかって準備しました。毎朝ミーティングをして、自衛隊の車で四チームに分かれて巡回しました。いろいろな支援の方々が来てくれましたが、長崎大学チームは、人が入れ替わる時は自分達で引き継ぎをしてきてくれたのでとても助かりました。また、副院長先生に何度も「いいんだよ、それで」と言っていただいたのが大変ありがたかったです。長崎大学は口腔外科にも大変強いので、当市の歯科衛生士達と被災者の口腔ケアをしていただき、肺炎になる人がほとんど出ませんでした。四月半ばから精神保健福祉士の方達が、六月には心のケアの人達が来てくれました。災害対策本部の人達は不眠不休で壊れそうだったので、職員のメンタルヘルスケアもお願いしました。

 仮設住宅への入居は当初の予定では二年といわれていましたが、復興住宅がまだ全然足りず、四年に延長されました。今も四千人以上の方が仮設住宅に入っており、さらに新たに建設しています。津波で家を流されたり、警戒区域に指定されて市外へ避難していた人達が戻ってきて仮設に入居するケースも増えています。

 南相馬市は原発から二〇㎞圏内の警戒区域、三〇㎞圏内の緊急時避難準備区域および計画的避難区域、さらに圏外(大丈夫といわれている区域)と線引きがされ、当初は三〇km圏内までしか賠償金などの補償がなかったので、圏外の住民からは「同じ市内で、自分達も大変な思いをしたのに」との声が上がるなど、確執が生まれたりもしました。

 保健師活動で困ったり、悩んだりしたのは、まず対策本部の考えが伝わってこないこと、放射能についての知識がないこと、震災・津波・原発など被災状況が異なる避難者への対応、そして何より先が見えないことでした。それでも頑張れたのは、三区の保健師を一元化し、役割を明確化して活動できたこと、コーディネートする人の存在、そして多くの支援者の応援があったからでした。

 緊急時避難準備区域には、危険だからと五月頃まで公の支援が入ってきませんでした。私達はずっとそこで生活していたのに、まるで感染区域かのように「物資をそこまで配送できないから隣町まで取りに来い」と言われて市の職員が取りに行くなど情けない思いもしました。ただ、全国から有志の保健師の方達が来てくれて、一緒に巡回などをやってくれました。警戒区域の学校は圏外の学校の体育館を借り、パーテーションで区切って授業を再開しました。四月下旬のことです。子ども達はバスに乗って通いました。この頃の子ども達の市内居住率は二割弱でした。

原町保健センターでも半年後にようやく「なかよし広場」という小さいお子さん達の遊び場を開放し、撹上さんから送っていただいた布絵本などで遊びました。また、戻ってきた中年の女性達はパワフルで、「何かやれることはない?」と言う方もおられました。母子健康推進員の研修会を公募したところ二〇人も集まってくれました。この方達と一緒にファシリテーション等を学び、今年の五月には南相馬市母子愛育会として立ち上がりました。さらに「今だからこそ笑える健康教室を」ということで笑いのヨガなども広げていっています。

震災を乗り超えることは難しいですが、震災・原発不安と向き合い、折り合いをつけながら、一緒に笑い合えるような保健師活動を仲間達としていきたいと思います。そしてみんなが安心して暮らしていけたらいいと願っています。

≪質問≫
Q.震災当初、一番大変だったことは?
A.直後は何が何だか分からず、原発が爆発したことも知らずに、避難してきた人達が少しでも安心できるようにと現場にいました。その後、在宅で困っている人達のことが分かってきたのですが、人手がありませんでした。総合病院の看護師の方達と協力して・・・・・・と計画を立てたら看護師の方達は多くの人が避難した新潟へ行くことになり、東京などから支援が来るからと言われて巡回の計画を立てていたら爆発でだめになり・・・・・・と、計画するたびに頓挫してしまうことが続いたのがつらかったです。病気の実父も足の悪い母と在宅で頑張っていましたが、そのうち食べ物も十分に入ってこなくなり、三月下旬にようやく宇都宮のホームに入居できました。五月の連休までは何を考えていたのか思い出せないくらい怒濤のような日々でした。連休には最低でも二連休は取れという指示で、ようやく休んだという実感でした。テレビを見ていたらようやく自分を取り戻したのか、涙が出てきました。六月に看護協会の集会で東京に行った時も、人々が普通に生活しているのを見て泣けてきました。

Q.子どもを持つお母さん達の悩みや子ども達の様子は?
A.家に戻れるかどうかの基準は放射線量ですが、校庭や公園は除染のおかげで確かに下がってはきています。ただ、戻るかどうかの判断は一人ひとり違います。戻ってきたお母さん達も、「放射能は気になるが、お父さんと離れて暮らしたくないから」「気にしてもしょうがないと自分を納得させて」「あきらめて」といろいろな考えの人がいます。また、「将来どんな影響があるか分からないから、後悔したくないので避難する」と避難する方を選ぶ人もいます。三〇㎞圏内の公立の保育所はまだ閉じています。三〇㎞圏外の地区の保育所は開いているので八〇人くらいのキャパシティのところに一二〇人くらい入っています。外遊びができない園では子ども達が落ち着かず、保育者の心身の疲れもたまっています。仮設住宅では隣に泣き声やドタバタする音が聞こえないように気を遣い、子連れで散歩をしていると「こんな所にいていんだべか?」と言われることでつらくなってしまうお母さんもいます。お母さんが落ち着かないと子どもも落ち着きません。放射能の害も心配だが、家族がバラバラに暮らすことが子ども達に及ぼす影響を考えて、避難せずに地元で働くお父さんと一緒に暮らすことを選ぶお母さん達もいます。